「水詠」

2001年7月12日著

あのね。
最近、水泳、始めました。
スイミングクラブに、行ってるんです。

 そう、彼女は俯き加減でとつとつと話し出す。

ほぅ。
そうですか。
泳ぐのは、得意なんですか?

 私は、彼女の隣に腰掛けて、俯き加減で問う。

ううん。
全然です。さっぱり泳げません。
…でも、浮かぶのは好きです。

 彼女はふるふると首を振って、そう応えた。

それじゃぁ。
スイミングクラブでは、いつも浮かんでるんですか?
ぷかぷか、っと。

 冗談のつもりで、私はそう聞き返す。

ふふふ。
そうですよ。ぷかぷか、って。
気持ち良いのですよ。これがまた。

 彼女は掌をひらひらさせて、少しうっとりした顔をする。

ほほぅ。
気持ちよさそう、ですね。とても。
羨ましいな。

 私は目を細め、彼女をみつめる。

あおむけになって、ですね。
ほわほわって浮くんです。
そうすると、聞こえてくるんですよ。

 目を閉じて、彼女はゆっくりと空を見上げる。


そうすると?
何が、聞こえてくるんですか?

 私は、少しだけ首を傾げていたかもしれない。

水の、うたう声。
はわーん、はわーん、って聞こえてくるんです。
はわーん、はわーん、って。

 彼女は目を閉じたまま、耳の奥のその音を懐かしむようにちょっと微笑む。

ほぅ。
水の詠う声、ですか。
正に水詠、と言う訳ですね。

 私は、目を閉じたままの彼女を、優しく、みつめる。

え?
はい、確かに水泳です。
くらげのように泳いでますよ。ふふ。

 彼女はこちらに向き直り、ゆっくりと目を開いて優しく笑う。

なるほど。
酷く楽しそうだ。
ご一緒したいものですね。是非。

 私もつられて、ふふ、と笑う。

はい、是非。
…水着は、お持ちですか?
どんなものでも構いませんよ。

 こちらを見上げて、そう問う彼女。

あぁ。
確かに、水着、必要ですよね。
生憎、持っていません。

 私は自分の粗忽さに、思わず苦笑いしてしまう。

多分そうかな、と思いました。
一緒に買いに行きましょう。
…良くなったら。

 彼女の眉が、ちょっとだけ哀しく動く。

えぇ。
良くなったら。
是非。

 つい、逸らしそうになる視線をぐっと堪え、私は微笑む。

はい、そうしましょう!
…では、そろそろ病棟に戻らないといけませんね。
日差しも、ちょっと強くなってきたし。

 彼女は額に手を翳して、空を見上げる。

はい。
そうしましょうか。
……来てくれて、ありがとう。

 彼女は、眩しそうにこちらを見て、にっこり、微笑んだ。




その夜。
私は殺風景な病室のベッドで、波間にゆっくりとたゆたう夢を見た。
そして確かに、水のうたう声を聞いたのだ。

はわーん、はわーん、と。
[終わり]

目次

「路上にて」

2001年7月17日著

「ついさっき、失恋したんですよ。そこの角で。」

まるで、ぽろりと落し物でもしたみたいに
彼女は困ったように笑って言った。
僕はただ、「あぁそうですか」と頷いて。

「そんで、慰めてくれる人大募集中!なんですが」

なんですが、って。
ねぇ?
僕はただのしがないよっぱらいで。
一昨日振られたばかりのよっぱらいで。
ここでこうやって大の字になって歩道にねっころがって。
誰かに構って欲しくって、しょうがないんですよ。
そんな僕に、慰めろだなんて。
ねぇ?

「とりあえず、ちょっと起きてくださいな。ほらほら」

おっととと。
引き摺らないでください、頼むから。
わかった、起きますよ、うん。ちょっと待って。
よっこらしょっと。

「なかなか、よっぱらいですねー。千鳥足、得意そう。ふふ」

そんな嬉し哀しそうに笑わなくても。
得意ですよ。そりゃもう。それしかできない位に。
あぁ、そうだ。これあげます。
貴方も千鳥足、ご一緒にどうぞ。

「あ、ビールですか?ありがとうございますー!」

ぷしゅ。
僕がポケットから取り出した缶ビールを受け取るや否や
彼女は軽快にプルタブを引く。
ぐきゅる。
ぐきゅる。
ぐきゅる。
仁王立ちになって、ほとんど飲み干さん勢いだ。
天晴れ。

「っぷはー!ぬっるーい!!あはははー!」

そりゃそうでしょう。
僕が人肌程度に暖めておきましたからね。
赤ちゃんだって心地よく飲めますよ。
温度的には。

「あたしねー、ビール大嫌いなんですよ、実は」

はぁ。
なんというか、誉めてけなすタイプですね。アナタ。
いや、イインデスケドネ。この際ね。うん。

「そして、よっぱらいも大嫌い!あははー!」

あははぁー。
そうでしょうそうでしょう。きっとそうだと思いましたよー!
あ、いやいや、泣いてませんって。ほんと。
だいじょぶだいじょぶ。うぅ。

「なんで嫌いかと言うと。…知りたいですか?ねぇ?」

さぁ?
大方、さっきの男がビール好きのよっぱらいなんでしょ。
まるで俺みたいに。

「いや、逆、逆です。奴がビール嫌いでよっぱらい嫌いだったの」

それだけ言って、黙ってしまった彼女。
ずっと、嬉し哀しい笑顔のままで。
僕は、どうしようどうしようと思っている内に
段々酔いも覚めてきて。
どうしよう?

「あははー。はぁ」

彼女は笑おうとしている。
そういう気持ちで、笑い声だけを発している。
もう、ちょっとでも突付けば、泣き出しそうだ。

「あは、あはは」

突付いてみることにした。

「・・きゃっ!」

彼女の腕を引っ張って、無理矢理、隣に座らせる。

「っなにすんのよ!このよっぱ……うっ、うっ、…うわぁぁぁん!」

途中まで僕を罵倒しかけ、彼女の堰は切れてしまった。
そうして、涙と洟と汗でぐちゃぐちゃになりながら
彼女は臆面もなく、路上で泣き続けた。

道行く人は、地べたに座り込む二人のよっぱらいを怪訝そうに見ながら
或いは面白そうに眺めながら、目の前を通り過ぎる。
僕はすっかり酔いも覚めて、彼女の横顔をぼんやりと眺めていた。

数分後。

いよいよ涙も枯れたのか、彼女はおとなしくなり偶に啜り上げるだけ。
僕はと言えば、頭痛と吐き気でぐるぐるしながら
なんとなく、頭に浮かんできたメロディを口ずさむ。

「……それ、『Let it be』…ですよね」

そうですよ。多分。
おや、泣くだけ泣いたら、すっきりしましたか?
レリビーレリビー、ってね。
まぁ結局、なるようにしかならないし。ねぇ?

「…うん」

んでもって、今はLet it Beer!ってとこで。
…ほらほら、笑うとこ笑うとこ。

「…ぷっ。あは!あははは!」

彼女はすっかり乱れた化粧のままで
さっきとは違う色の涙を流して笑い転げる。
僕は頭痛を堪えながら、ようやくの思いで立ち上がり
とりあえず大きく、伸びをする。

「あ。意外と背ぇ高いんだぁ」

意外ですか?
まぁ確かに、これでも高校んときはバスケ部で…

「さーて。すっきりしたとこで、帰ろうかなっと」

僕の武勇伝を聞く気は、更々ないらしい彼女は
ちょっとよろめきつつ立ち上がり
軽くお尻を掃ってから、僕の方に向き直る。

「ぬるめのビール、ごちそうさまでした。それじゃ…」

彼女はペコリと会釈してから、駅へ向かって歩いてく。
ちょっとふらついてるけど、心なしか、軽やかな足取り。
その後ろ姿をなんとなく眺めていると、突然、くるりと振り返る彼女。
そうして、にっっと笑って一言。

「レリビール!」

思わず釣られて、笑う僕。
彼女は大きく手を振って、今度は振り向かず帰っていく。
まぁ、見えやしないけど、僕も大きく振り返す。
さいならー。

って訳で、頭痛と吐き気は相変わらずだけど
それなりに心地よく帰路につく僕なのです。

Let it Beer!
[終わり]

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